「心臓の鼓動に合わせて生きる」壮絶な人生を送ってきた路上パフォーマーの常識に囚われない生き方

過酷な家庭環境で育った幼少時代

ーー幼少期の話を聞いていいですか?

僕は青森県で生まれました。家庭環境がややこしくて、僕の父親は一度も働いたことがない人で僕が生まれた時33歳でした。母は中学を卒業してからレディースの総長をしていた人で当時20歳。母方のおじいちゃんもいわゆる”怖い人”だったので小指がない。そんな家庭で生まれました。できちゃった婚で生まれたので、両親は僕を育てる準備ができてなかったそうで、父親は僕が生まれた途端に僕を捨てて逃げました。

これは後から病院の人やおばあちゃんに聞いた話なんですが、僕が生まれてから、母親はうるさくて眠れないからという理由で、僕の首を締めて0歳の時に僕は仮死状態になったんです。母親の精神状態は当時、障害者手帳一級レベルのヒステリック障害があったらしくて、僕は母と生後2週間で隔離されて、僕は緊急治療室でいきなり一人暮らしが始まりました。

ナースとドクターに、病院で3歳まで育てられましたが、小さい時から自分が普通の環境で育ってないってことが本能的に分かっていたんで、ナースやドクターに対して「僕を育てる必要がないのに時間を割いてくれてる」っていう罪悪感がありました。3歳の誕生日に、ナースに「食べたいものなんでも言って」って言われたんですが、僕は「僕の食べたいものはいいんで、僕に使う時間とかお金をみんなのために使ってください」って答えたそうです。普通だったら、子供は泣いたら親が駆けつけてくれてあやしてくれる。でもそれは親子の信頼があって成り立つものじゃないですか。でも、子供って泣いて助ける人こなかったらなくの辞めるんですよ。だから、僕は特殊な環境にいるんだいうのが分かっていたし、泣きませんでした。

3歳になってから、両親が再開してもう一度やり直そうということになって、両親が僕を引き取りにきました。その時はお父さんの顔もお母さんの顔も全く覚えてなかったんですが、それから東京に引っ越すことになりました。それから母は、料理の専門学校にいることになったんですが「包丁持つと殺意が芽生える」という理由でやめて専業主婦になりました。今まで働いたことのなかった父は普通のサラリーマンになり、初めて自分で金を稼ぎ始めました。でも、会社のストレスや家庭のストレスを風俗やギャンブルに使うようになり、借金を抱えるようになりました。

そんな中でも、妹が生まれるってなったんですが、父親が運転していた車が高速道路で玉突き事故に遭い、母親のお腹が圧迫される形になり、流産になりました。予定より早く生まれてしまった妹は未熟児で、緊急治療室で3ヶ月間命を取り留めたんですが結局亡くなってしまいました。その後、また妹が生まれたんですが、その子は腕がない奇形児でした。父親が風俗に通っていたせいでHIVにかかり、母体感染で子供にも影響が及んだということでした。その子も結局亡くなってしまいました。

母は病院で一生子供ができないと言われ、父親と喧嘩になり、父はまた出ていきました。それから僕は、今度は1年間特別施設に預けられ、母は風俗で働き始めました。父親とはそれ以降会ったことがないです。5歳になってから、生活保護の団体から母親に通知がきて、保育園に通うことになりました。僕は、施設から保育園に自分で通い、母親はドレスを着て2週間に一回だけ施設にスナック菓子やカップラーメンを置いて、またどこかにいなくなるという生活でした。お腹が空きすぎて、部屋にあったろうそくを食べたりしてました。すぐにお腹いっぱいになるんで、魔法のお菓子だと思ってずっと食べてました。

施設に通う生活が終わり、母とふたりで住んでいたんですが、母親から椅子に縛り付けられて殴られたり、バルサン焚かれたり、切られたり、頭を掴まれて机の角に投げられたり。いろんな種類の虐待を受けました。失明しかけたこともあります。小学校に上がる時には虐待のトラウマから、自分の意見はなるべく言わない子になっていました。人にストレスを与えない・人をなるべく怒らせないってことばかり考えていました。案の定小学校では友達もできず、作り方もわかりませんでした。

人生が変わるきっかけになった小学校での出来事「自分は生きてるんだ!」

ーー壮絶な過去を歩んで来られたんですね・・・。

ある日、クラスの隣の席の子と一緒に帰ることになり下校していると、実は住んでいるところが隣の建物の一緒の階だということが分かりました。お互いのベランダ同士の距離が近かったので、それから毎晩夜7時にベランダに出てお互いにおしゃべりをする約束をして、僕に初めての友達ができました。3ヶ月間は、その友達と話すことだけが楽しみでした。

しかし、3ヶ月経ったある日、その友達がぱったりベランダに現れなくなりました。学校で会った時に、「なんで最近ベランダに来てくれないの?」と聞いたら、彼はもう引っ越したと言っていました。彼いわく、「毎日虐待にあっていた君の声がうるさくて、かわいそうで寝れなかった。近所で有名だから、もう関わらないように家族で引っ越さないといけなくなった。」ということでした。僕は、初めてできた友達を失い、また友達を失うのが怖くて、誰とも話さなくなりました。

ある日、僕は給食の時間に1人でご飯を食べていたら、椅子から転げ落ちてしまって、机の上にあった牛乳が僕の頭の上にかかったんです。食べ物が宙を待って、最悪なことになったんです。その時に、みんなが僕の方を向いて、みんなが僕を指差して爆笑したんです。

その時に、初めて体験する感覚に襲われて、「自分は生きてるんだ!!」って感じたんです。今まで僕はどんなに虐待にあっても「自殺したい」とか思ったことがなかったんですけど、「今まで死にたいとか思わなかったのは自分が死んでたからなんだ」って思ったんです。僕は顔を真っ赤にしながら、牛乳をかぶって笑ってたんですよ。その時に人生で味わったことのない快感を覚えたんです。

それから人を笑わせることに命を賭けようと決心しました。小学校6年生になってから、吉本興業に入って毎日人を笑わせることを考えてました。やり方も分からないまま毎日奇行に走ってクラスメイトを笑わせようと必死でした。授業中に真っ先に手を挙げてはトンチンカンなこといって、テストは0点を取ればクラスのみんなに笑われたんで、毎回0点(笑)

そうやってようやくクラスに溶け込めるようになりました。初めて誰かに必要とされる存在になれたんです。今まで、親にもナースにもドクターにも必要にされなかったけど、自分の隣にいる人、クラスメイトに必要とされることが僕の自身になって、生きてる快感を感じられたんです。

人を笑わせることが自分が生きてるって感じられる唯一の手段だったんです。それから今もずっと、どんなに恥をかいても自分を見てもらいたい、自分を認めてもらいたいって想いがあって、それがダックマンとしての今の活動にも繋がってます。

ーーたった一度の経験がTKエンターテイナーさんの人生を大きく変えるきっかけになったんですね。それから人を笑わせることを軸に生きていくことになったんですか?

小学校の時は、バカで面白ければ人気者になれたんです。でも、中学校からは0点だよってテスト見せても周りは全然笑ってくれなくて。引かれちゃったんです。それから頭悪い奴が、バカなことをしても笑ってもらえない。じゃ、頭良くならなきゃって思って、中学2年の時から勉強を頑張りました。それから僕はずっと成績トップになって、生徒会長にもなりました。尊敬もされるようになりました。

小学校の時とは違う。中学校になったらもう大人だから、ある程度権力もあって、尊敬されて、かつバカであれば笑ってもらえるのね。って気づきました。それから高校も大学も推薦で進んで、常に成績はトップでした。

大学に入ってからも在学中ずっと学年1位を取らせてもらっていたおかげで、学費も払わなくてよかった上に、東京大学の名誉教授の方からヘッドハンティングされて、東京大学の教授の秘書として働けることになったんですね。心理カウンセラーとしてもボランティアで大学の中で働いてて。大学の教授からは、「勉強もできて、仕事もできるんだから教授になった方がいい」と勧められました。その時には、すっかりお笑いから遠ざかっていました。

ABOUTこの記事をかいた人

taito.katsumata.hoteling@gmail.com

勝俣泰斗 HOTDOG TIMES共同編集長。大学2年次に、ニューヨーク州立大学を成績不振で退学。帰国後の2年間、旅企画の引率や東京のゲストハウスの運営を経て、同大学に再入学。好きな食べ物はホットドックかと思いきや、ハンバーガー。